2005/8/24 (水)
トマトと作曲
 
  庭にトマト苗を植えたのだが、そもそも、家と家の間にある狭い庭だし、隣に木が立っていて、夏になり景気よく生い茂っているので、陽があまり当たっていない。お陰で、トマトの実は全然ならず、よって興味を失いほっぽらかしている。それでも植物というのはちゃんと生きているもので、実こそなりはしないものの、茎は伸び新しい葉を付けている。新しい茎は、恐らくたまたまだろうが、陽が比較的当たる方へ伸びていき、そこの葉は元気そうだ。葉を撫でて、部屋にもどり、その手を鼻に近づけたら、トマトの匂いがした。嬉しい。

武満徹の室内楽を聴きながら思った。曲名は不明だが、アンビエントにも通ずるような、効果音の連続にさえ聞こえる曲があった。その前までの曲を聴いていて、12音とか使った音楽というのは、シリアスなものしか生まれないんだろうなー、と思っていたので、未聴感がありつつ、シリアスではない(少なくとも差し迫った感じはない)ので「これは面白いなぁ」と思ったのだ。

こういう曲は、「奏者が勝手にアドリブで演奏しても同じように聞こえるのではないか?」とさえ思えるが、実際のところ、奏者に任せてしまうと、こういう「偶然性を感じさせる音」にはならないと思う。私の作曲の先生が言っていたが、アドリブで弾かせるのは、「作曲家が仕事を放棄している」んだそうだ。誰だったが、紙切れ一枚に曲名と作曲者の名前だけ書いた人がいたけど、それはその極致なんだろうなぁ。

とはいえ、このような種類の曲が一般的な五線紙に、テンポを指定して書かれているのも変だなぁと思うのだ。音の取れる可能性というのは色々ある。重要なのは、その曲を律しているものであり、音符一つ一つは、その範囲内であれば他の音でも他のタイミングでもよい場合がある。それに、指揮棒に併せて、必死でテンポをとり、思いがけず書かれた音符を演奏するのも、演奏者が可哀想だ。まるでMIDIが繋がっていて、ノートオフの信号がシーケンサーから送られてくるのを待っている、音源モジュールのように思う。私はベルトコンベアーのように、機械のペースに併せてなにかをやるのが嫌いなので、できたらそういう曲も書きたくない。

ではどうやって奏者に音や音になるまでのなにかを伝えるか、という問題だが、その手段を色々と図形にしたり絵に託した人もいる(いた?)が、主流になったとはとても言えないし、演奏者が一番慣れていて有り難いのはやはり五線に乗っているオタマジャクシなのだ。

そこで、曲の最初はベルトコンベアーでもしょうがないが、そこからその曲の意図するものを感じてもらって、その先でアドリブというか、ベルトコンベアーから一歩飛び出したなにかを演奏家に出してもらうというのは面白いなと思う。同じことをやってもらってもつまらない。相対的に変化を指示したら面白い。今まで楽譜に書いてあったのは「朝の都市の道で排気口から聞こえてくる地下鉄の走行音の音楽」で、ここからは「黄昏時の田舎で、線路から500メートルほど離れている小高い丘から聞こえる、古い機関車が走り去っていく音の音楽」。はいどうぞ!

これだと、作曲する側としたら、途中からどうなるか分からないから、とても聴くのが楽しみ・・・。

どうでも良いんですが、今、蚊が飛んできてその音が聞こえたのに、てっきり武満徹の曲の中で、ヴァイオリンが中音でポルタメントした音を出しているのかと思いました。




 
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