2014/02/10  フェイク

Category: 社会
例えば藤倉大さんという作曲家がいて、日本の若手の現代音楽家の中では最も注目されている作曲家じゃないかと思うのだけど、果たして一般の人でどれほどの人が彼を知っているのか?少なくともCDが数万枚売れたという話は聞かない。私も10年程前に彼の曲をとあるコンクールで知って興味を持ったのだが、未だにCDも楽譜も持っていない。世に出ていないはずはないのだけれど、なんというか大きくは話題になっていないこともあり、実際に手に入れる機会がなんとなくないのだ。不勉強だと言われてしまえばそのとおりだけど。

翻って今話題の佐村河内さんだけど、彼のほうがよほど一般の知名度はあったと思う。私もCDを買おうとまでは思わなかったが、「そんなに皆が良いというなら借りて聞いてみようかな?」と図書館で予約して早一年以上(すっかり忘れていた)私の前に予約が50件だかそれ以上入っていて未だに順番待ち。佐村河内氏はそれほどまでに注目されていたのか?

なぜだろう?
もちろん曲が良かったのかもしれない(私は聞いていないので分からないけれど)
しかし、恐らくそこにはストーリーがあったからというのが大いに有り得そうだ。
重い障害を負っているにもかかわらず、彼は苦難を乗り越えて交響曲を書き上げた。その交響曲が多くの人を感動させている!
と。

そのストーリーがどうやらフェイクだったことが判明して今大きな問題になっている。

しかし私は世間に聞きたい。
「いや、皆さんフェイクを楽しんでいたのではないか?」と。

卑近な例だけど、この前「台本のない・・・」とかなんとかテロップ付きで、男女の恋の駆け引きみたいなものをテレビでやっているのを見た。以前やっていた「あいのり」・・・でしたっけ?そんな感じの番組です。よく分からないけれど、少なくともカメラのフレームもバッチリ、ライトもバッチリで、かなり計算された「絵」で男女の(リアルに見せている)会話が展開されていた。それを一緒に見ていたNHK関連のADをやっている若い青年が「これは多分台本がありますよ」と一言。テレビ業界のウラ側は知らないけれど、画面を見る限り彼の意見に同意せざるを得ない。もうこちらとしてはそういう嘘くさいものを見せられている時点で十分にシラケているのだけれど、こういう番組があるということは楽しんでいる人は結構いるのでは?と思う。皆さんフェイクがお好きなのでは?

佐村河内氏はロック畑の出身だと聞いたけれど、それならビジュアル系バンドが自分の化粧をしてアーティストとしての虚像を創り上げるのとそれほど変らない気持ちでフェイクを積み上げていたのでは・・・などと考えてしまう。

現代は、広報、宣伝が大変な時代なのだろうかね。
情報過多。右から左から上から下からビットが通りすぎていく。
なにか大衆の琴線に触れるストーリーがないと注目されないのだろうかね?
そこには何がしかのフェイクが必要なのか?

音が全てでいいじゃん。自分の好きな音を聴こうよ。と音楽をやっている人間として思う。
音よりもフェイクが消費されているとしたら、悲しいことだ。詰まらないことだ。
と思う。

それにしても、なによりこの一連の騒動も実はフェイクで・・・などと思わず想像してしまう。現実的にこの騒動も一つのエンターテインメントとして「消費」されているのではないかという気がする。

そこにはもはや音楽はないだろう。単なる毀誉褒貶。
皆がワーワーギャーギャー騒ぎ立てるだけのエンターテインメントなのではないか。

2012/07/13  objection 異論

Category: 社会
大津の中学2年生がいじめにあって自ら命を絶った事件。

事件後、
「見て見ぬふりをしてしまった・・・」と、クラスメートが反省している。
というニュースが流れた。

確かに助けてあげられたら良かったと思う。いじめられている生徒の側にいてあげる他の生徒が一人でもいたら良かったと思う。

でも、いじめられている生徒を助けるというのは、簡単に「反省」という言葉で済ませられるほど簡単なことではないのではないか?という気もする。

いじめになっているということは、それは「多人数vs1人」という構造になっているはず。もし誰かがいじめられっ子を助けようとした時、その対立構造そのものを解消することができれば万々歳だけど、もし失敗するとどうなってしまうだろう?恐らく「多人数vs2人」という構造になってしまうだろう。これは助けようとした子も一緒に苛められてしまう可能性があるということ。子供というのは容赦しないところもあるので、特にそういうリスクを取ることは簡単なことではないのでは・・・?という気がする。

更に思うことは、これは子どもだけの問題ではなく、むしろおとなの社会こそがそうなっているのでは?ということ。

多数の人間の間で意見が一致している場合、同調圧力がかかる。流れが出来てしまう。一人だけ逆らいづらい。皆、それに従わなくてはならない、という雰囲気ができてしまう。「おかしい」と思う人がいたとしても、「私はそうは思わないんですよねー」と声をあげるのは簡単なことではない。

(おい、空気読めよ・・・)

と無言の圧力が流れるはずだ。

もちろん、言っていることが非論理的で筋の通っていないことであるならば、それは「自分勝手」になってしまうだろう。
ただ、この同調圧力といやつは、筋が通っている異論さえも封じ込めるものだと思う。
大津のいじめられっ子を助けられなかったように。

子供に「見て見ぬふりとは何事か。反省しなさい。」と言うのは簡単だ。
でも、その根底にあるものは大人の社会にこそ存在する「異論を言いにくい」「長いものには巻かれろ」の文化ではなかろうか?と思う。

さて・・・

どうしたって、好かれる人間と嫌われる人間がいる。子供も同じ。
これは人と人に差異がある以上自然なことかと思う。
人間にはそもそも好き嫌いが備わっているので、これは致し方のないことだと考えたい。

いじめがあったとき、子供はどうしても先生や親などの大人に相談するのを躊躇する傾向があるようだ。
これは子供の頃を思い返してみるとなんとなく分かる。「先生にちくったなー」ってやつで、どうも子供は子供どうしで物事を解決したがり、大人を巻き込むことを潔しとしないようだ。(考えてみるとこれはなぜだろうね?少なくとも利害でそうしているわけではないと思う。)

子供のことは子供同士で解決するのが一番理想かと思う。

テレビでコメンテータがこのいじめの問題で意見を求められて
「論語を勉強したら良い」とか
「先生の体罰を認めるのも・・・」
などと、私からするとほとんど的外れの解決案を出していて、とても暗い気分になった。
(聞きながら本当にしばらくうつむいてしまった)

そんなことより、
「いじめを止めに入った生徒を、大人は全力で褒めてあげて、そして守ってあげる」というのはいかがだろうか?
特効薬ではないけれど、これは損はないと思う。
いじめを止めに入るというのは、上に書いたようにとてもリスキーだ。止めに入った子供も下手をするとマイノリティーになって、一緒に虐められ可能性がある(というか基本的にその可能性の方が高いだろう)勇気を持ってその行為を買って出た子供(偉いなぁ・・・!)その子こそは大人が全力で守って上げなければならない存在だと思う。

いじめが止まった後も、
「止めてもらって良かったけど、相変わらず独り・・・」であるのと「1人助けてくれた人がいる。まだあまり親しくないけど話はできる!友達になれるかも!」っていうのは、スゴク大きな違いなんじゃないだろうか?

先生であっても所詮大人は子供の世界の「行司役(レフェリー)」であってプレイヤーではないと思う。子供の問題は子供に基本的に任せつつも、悪い方向に行かないように、サッカーのレフェリーのように選手をなだめすかして、時には叱りつけハンドリングする必要がある。先生が体罰をふるっていたら、それは子供の同じ位置(レベル)まで(本質的には)落ちてきてしまうことであり、子供は鋭いので「先生は暴力はダメって言うけど、自分はやっているじゃないか!」って思うだろう。子供って大人の持っている矛盾にとっても敏感ですよ(←体験談)。

とはいえ、既に常軌を逸した集団での暴行がある場合などは、それは既にある種の集団でのヒステリー状態にあるわけで、子供達のしきたりよりも法律の方が優先されるということも分かってもらわないと。「君たちのやった行為はこのような法律に触れている。ということはこれから告発され起訴され裁判にかけられ有罪になったあかつきにはこういう刑罰が待っているんだよ。おめでとう。」ということを普段行ったことのない暗い雰囲気の部屋で無表情の怖い大人達に取り囲まれて(冷徹に)伝達される必要がある・・・とは思う。
Category: 社会
この度の東北地方太平洋沖地震で亡くなられた皆様にお悔やみ申し上げるとともに、被災された皆様には心よりお見舞申し上げます。

子供の頃3年ほどですが、仙台に住んでいたことがありました。宮城県の惨状を知るにつけ、心が痛みます。
小学校でよく「宮城県沖地震」について教えられたのを覚えています。1978年のこの地震は死者28名など、大変大きな被害をもたらしました。防災の為にも、「宮城県沖地震はまた必ず来るから注意しましょう」そんな内容だったと思います。そして、宮城県沖地震はまたやってきました。今回の地震は震源がとても広範囲に渡り大きいですが、震央から考えると宮城県沖地震が広範囲に渡って影響を及ぼしたものであるようです。

まさかこんな大きな地震になってしまうとは・・・。

1978年の地震は仙台港で30cmの津波だったと聞きます。それが今回は10mです。亡くなった方、行方不明の方の人数は震災から一週間を過ぎた今でも分かりません。地震や津波の傷跡が癒え、完全に復興するのはいったいいつになることでしょう?

今は、行方不明の方が少しでも沢山救助され、被災された人のご苦労が出来るだけ少なく、また被災地が少しでも早く復興することを心より願います。

被災地から離れた私たちに出来ることはなんでしょうか?一刻も早く被災地に駆けつけたい気持ちにもなりました。

しかし、混乱を避けるためにもどうやら

1)募金
2)節電
3)買い占めをしない
4)出来るだけ普段通りの仕事・生活をする
5)被災地でのボランティアの募集があれば、体力・余力がある人は現地へ

この辺りが、妥当なところであるようです。
このように限られたことしか出来ず、もどかしいのですが、私も少しでも協力させていただきたいと思います。

* * *

今回の地震にはさらに原発の放射能の問題が追い打ちを掛けています。これは本当に頭の痛い問題です。被災された人のことを一番に考えなければいけないはずなのに、原発の放射能を気にしなければならないのはおかしな話です。東京でも放射能の恐れがありましたので、私もとても心配していました。特に12日に福島第1の1号機が水素爆発したときは、恐怖を覚えました。

しかし、情報を総合すると、

1)核分裂は止まっている。進行が止まらなかったチェルノブイリ型の事故ではないらしい
2)現状、避難区域外では健康に影響を及ぼす放射能は検出されてない
3)政府の発表は情報の出し方が遅い局面もある。パニックにならないよう気を使っているようだ。しかし基本的には正しい情報を発表している。
4)放水作業等が成功し、現状小康状態を保っている

この辺りが私の考えです。
残念なことに、危険を必要以上に強調して、危機を煽っている人が一部にいます。
放射能が不安な方は

東北関東大震災・非公式・放射性物質モニタリングポストMAP
Japan quake radioactive material monitoring post MAP
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&msa=0&msid=208563616382231148377.00049e573a435697c55e5&ll=39.13006,140.229492&spn=17.158657,39.111328&z=5

などをご覧になり、ご自分で判断されるのも一つの方法かと思います。値が上がったこともありましたが、健康に影響のない範囲内でしたし、1日も経たずすぐに通常の数値に戻りました。ですから、少なくとも避難指示や勧告が出ていない東京では避難する必要は全くないと私は考えました。

もちろん、情報を勘案した上で、念のため海外や関西に避難しようとされる方もいらっしゃるでしょう。私はそれを悪いことだとは思いせん。過去でも「逃げられたユダヤ人」と「逃げられなかったユダヤ人」の二種類の人がいました。どちらも、各個人の判断で、それは尊重されるべきだと思います。

しかしながら、デマやミスリードする人に煽られて、必要以上に心配してしまうのは、とても残念なことです。情報を冷静に取捨選択する・・・。この大切さ、難しさをこの一週間強く感じていました。

* * *

福島第一の原発で作られた電気は、現地で使われるのではなく、首都圏に送られます。今回のような事故が結果的に起こってしまい、私は福島の人たちに大変申し訳なく思います。

福島第一の1号機は1971年に運転を開始したと聞いて、驚きました。私と同じ歳!!そのような古い原子力発電機で作られた電気に私たちは依存していたことになります。

近年、二酸化炭素を出さないクリーンなイメージがあった原発ですが、このように大事故を起こしたり、放射性廃棄物が何万年も残ったり、廃炉になってもすぐには解体出来ない点など、実のところかなりコストが高いのではないでしょうか?

関係者の人たちも事故を起こさないように細心の注意を払っているのだとは思いますが、経験則的に言えばまた必ず事故は起こるでしょう。新エネルギーに移行できるのが一番ですが、今のところ原発の代わりになる新エネルギーはないようです。では、少ない電気で我慢できるのか?この答えはすぐに出さなければなりません。

* * *

エネルギーの件に限らず、今回の地震は、これからどうするのか、色々なことを問いかけ、その答えを迫っているように思います。

ではそれは一体どんな問いなのか?私は頭の中ではまだ整理が付いていません。ただ、色々な問いかけがあることは間違いありません。

その問いかけに耳を澄まして、少しずつ答えを見つけて行ければと思います。
 



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